宮城県の震災遺構を巡る旅

先月、娘とともに宮城県の震災遺構を巡る旅に行ってきました。

いつもお世話になっている田ボラさんに引率していただき、

田ボラのお友達と一緒に訪問しました。

 

ずっと学びに行ってみたかったんです。

でも向き合うことに怖さもあって、悩んでいる内にコロナ禍になり…

語り部さんにいつ会えなくなるか分からない、

そんな危機感もあってようやく実現しました。

 

仙台空港に到着後、まず向かったのは石巻市の大川小学校。

1週間後に卒業式を控えていたお子さんを亡くされた、語り部の方からお話を伺えました。

全校生徒108名のうち、実に74名もの小さな子供たちが犠牲になった場所。

なぜ?というやるせなさ、悔しさ…

いただいた冊子に目を通すだけで涙が出ます。

なぜこんな凄惨な事故になってしまったのか、その原因は「備えのずさんさ」にあると。

「もうこんな思いをする人を出したくないんです」という言葉の重み…

備えることに、もう少し真剣にならなければと切実に感じます。

 

次に気仙沼の向洋高校へ。

ここは有料の伝承館となっていて、構内には一部の被災物がそのまま保存されています。

13mを超える津波に襲われながら、犠牲者は出なかったとのこと。

映像シアターでは気仙沼の火災のことも学べました。

旅行中にアテンドしてくださった阿部寛行さんから

「大阪は大きな津波よりも、気仙沼型に気をつけた方が良い。

此花区の石油コンビナートが津波にやられて、石油が町中に遡上津波で広がって一気に火災になる。」

というお話も聞けました。

 

この日のお宿はホテル観洋さん。

ホテルに入る前に、観洋さん所有の民間震災遺構である高野会館にも訪れました。

ここはその当時、町一番のセレモニーホールだったとのこと。

あの日は高齢者の方のカラオケ大会が催されていて、ちょうどお開きになるくらいの時間。

とっさの判断で来場者を屋上に避難させた英断はすばらしいと思います。

 

ホテルで美味しいご飯と絶景露天風呂を堪能して就寝。

(メカジキとマグロとタコのお刺身と、わかめのしゃぶしゃぶと、

あわびの踊り焼きがびっくりするほど美味しかった)

 

2日目は「語り部のレジェンド」と称される後藤一磨さんにご引率いただきました。

戸倉中学校や五十鈴神社を巡り、

かつて後藤さんの家があった場所(津波で流され跡形もない)を通り、

実際に避難された高台で聞いた話。

にこにこと穏やかに、子供たちに分かりやすい言葉で話してくださいました。

「たくさんの税金をかけて堤防を作っている。

役所や政府は『あの堤防が皆さんの生活と命を守ります』というが、

実際この高台の今みんなが立っているところまで津波が来た。

あんな堤防で防げっこないってこの目で見ている。」

「政府や役所は『防災』という。

自然を、まだ人間の力でなんとかできると思っているんだ。

自然の力、災害は人間ではどうにもできない。

できるのは、災害が起きる前に備えること。

つまり『備災(びさい)』がなにより大事。」

この話を聞いて、我が意を得たりと感動しました。

…というのも、数年前に防災イベントに参加した時のこと。

防災士という人の「僕たちは防災士です!災害を防ぎます!」と

自信たっぷりマイクを握る姿に、なんて高慢な…とモヤモヤしていたんです。

自然はコントロールするものでも打ち克つものでもない。

自然と共生し、備える。それこそが私たちのありたい姿だと思います。

 

最後に後藤さんが教えてくれました。

「災害後、牡蠣の養殖を再開したら以前より成長スピードが速くて、しかも出来が良い。

色んな研究機関に調べてもらったら、海が50歳若返ったということが分かりました。」

前日私が舌鼓を打った海の幸は、

多くの人の家財や思い出、命を飲み込んで引き換えに若返った海の幸。

人間の罪深さよ…言葉が出ません。

↑ ホテル観洋から臨む志津川湾に上る朝日。溶けた鉄のように輝いていました。

 

そのあとは海の見える命の森の森林整備のお手伝いをして帰路につきました。

この目で見られて、話を聞けて、本当に良かったです。

最近地震が頻発していて、南海トラフも怖いですね。

この恐怖感をなんとかするためには、学んで備えるしかないと思います。

もし震災遺構の訪問をお考えでしたら、ぜひ語り部さんのお話を聞いてみてください。

やはり学びは、人と人のコミュニケーションの中から生まれると実感しました。